カタカナ語2011/07/22 23:00

カタカナ語、というのは、輸入物の言葉や和製英語を専門用語的に取り入れたもの、という意味合いで書いている。

最近「学び」の機会をたくさん得ているのだけれども、なんともまあ、どこもかしこもカタカナ語であふれかえっている事には驚いてしまう。

輸入物の概念を表すのには便利なんだろうけど、私のような馴染みの無い者にとっては、そのカタカナ語の意味を調べることから始めなくてはならないわけで。

それで、道具として使っているはずのカタカナ語が何を意味するのかを知り、それをなんとか自分でも使えるような気がするところまできただけで、なんとなく勉強できたつもりになったりするのだけれども、その講座においては「まだ聴く準備が出来たにすぎない」のである。

以前に福祉系の勉強をした折にも強く感じた事なのだが、学習の労力の大半はカタカナ語の暗記に費やされるのであり、それが試験で試される。カタカナ語を説明・注釈なしに理解できる事が、業界人の前提条件だとするシステムが構築されているようだ。

やがて、業界人にとっては、そのカタカナ語は常用語となり、彼らは、善良なる部外者に向けても、なんの疑いもなく躊躇もなく、カタカナ語を振り回すようになる。

善良なるその他大勢の非業界人は、もしかしたらその程度のカタカナ語の知識が無いというのは、常識に欠ける、という事かもしれない、という不安を覚え、こっそり調べてみたり、逆に門戸を閉ざして「俺には関係ねえ!」とばかりに開き直ったり、と、穏やかではない事態となる。

あきれるのは、業界から広く一般へお願いごとやお知らせといった目的で発信する際にも、カタカナ語を羅列しておいて平然としていることだ。

伝わらない言葉がそこかしこにちりばめられた講演やレジュメで、本当に本気で伝えようとしているとしたら、救いようのない馬鹿者だとしか言いようがないではないか。

仲間内で便利な言葉も、それを外に向けて発信する際には、いちいち説明が必要な、逆に不便な言葉となることを理解していない。
そのカタカナ語を敢えて使わず、誰にでもわかる表現や言葉に置き換える労力を惜しんでいては、自分たちとは関係ない特殊なグループの人として疎外・敬遠されていくのがオチではなかろうか。

業界カタカナ語を世間一般の常用語のレベルまで認知度を上げていこう、などと考えているのなら、顔を何百回も洗って出直してもらわないといけない。カタカナ語を覚えるより、その意味するところ、中身、実体、を知らる事のほうが先でしょうよ。意味するところが伝わったところで、あとからカタカナ語をあてはめることのほうが順当でまっとうなやり方だと思う。

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