ノーマライゼーション2011/07/21 22:57

ノーマライゼーションって言葉が最近気になる。
以前に精神福祉の勉強をしたときにはじめて知った言葉だけど、いま通っている起業塾で、またよく聞くようになった。

それで、前から感じていた違和感の正体に気付いたような気になった。

障害やハンデのある人も、老人も、子供も、健常者も、いろんな人が出来るだけ不自由なく、ともに暮らせる社会、といった意味で大きく間違ってはいないと思うのだけれども、その実現を目指す、といいながら、いったい何をやっているのかということが問題だ。

障害者等の側からは、それぞれに、あれが不便でこれが使えない、みんなわかって下さい、というアピールがあり、福祉従事者は、そうだ、わかってあげないといけない、と応じる。一般の人にも知ってもらわなければ、と、車いす体験だとか、目隠し歩行体験だとか、難病に苦しむ人たちの実態を記したビラを配布したりとか、行動を起こしたりする。

一般の人って、どんな人なんだろうか。そういう活動に関心を示す人たちなのかな。

私は違うと思う。

障害者やハンデを持つ人が「わかってほしい」と思うのは、そういう事に無関心な人、できるだけかかわりを持ちたくない、と思っているような人たちではないのか。

なぜなら、福祉に積極的な関心を示すよりは、そうでない人のほうが、数の上でも多いように思われるし、彼らハンデを抱える人たちの社会に出る壁の実体だと感じるからだ。

そういう無関心な人たちに、積極的ではないにせよ、障害者を受け入れる事を容認させる事がノーマライゼーション実現の姿だと思う。

無関心な人たち、かかわりを持ちたくない人たち、というのは、恐らくは、接し方がわからない、或いは、関わりを持って不快な思いをしたくない、危害を加えられたくない、などといった思いを持っているのではないか。

なぜそう思うのか、というと、知らないから。知る意欲が無いから。

そういう人たちに、勉強しろ、車椅子の場合はこうだ、精神障害の場合はどうだ、視覚障害の人はこうこうこうだ、と、いちいち知識を持ちなさい、などという態度で臨んでも、徒労に終わって当たり前だと思う。

彼らは、最低限、いろんな人がいる、という事を知ればいいのだ。
無礼、失礼、マナーがなってない、気持ちが悪い、などと感じた時、その人が「この人は自分が知らない特殊な病気か何かかもしれない」と考えて、感情をセーブするだけで十分ではないかと思う。

実際に、福祉に携わっている人でも、自分の専門以外の障害やハンデについて、どれほど判っているのだろうか。

一見普通に見える子供が、自閉症であったり、ADHDであったり、LDやACであったりする可能性をいつも考えているのか。

身体障害者のお世話をしている人が、アルコール依存症や統合失調症の病歴のある人と正しく接する事が出来るのか。

共存というのは、一般の人がすべてオールマイティーの専門家になる、ということで実現するものではない、と思う次第だ。
障害別に、私たちの事を知って下さい!と声を張り上げても、一般の人たちにしてみれば、その障害についてのみ多少知識を得るだけで、他にとっつきにくい知らない種類の障害者がいる限り、ノーマライゼーションの実現には至るまい。ましてや、障害者とは呼べない程度のデリケートな人たちの存在もあるのだから。

そのうち辟易して、福祉や障害者の話はうっとうしい、と思われて敬遠されるのがオチだと思う。

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